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53

潜水

ベッドから垂れさがる彼女の脚。

床いちめんに張った水は、ほとんど広がらない波紋とかすかな音で、それをうけいれた。踝のなかばまで浸かる。ほぼ室温の水の、とろりとした感触を、彼女が好きになったのは最近のことだ。そろりと立ちあがる。

この部屋は白くて、広くて、ものが少ない。西側の角にベッド、対角に鉄のバケツ、部屋の中心にキャビネット。窓はひとつしかない。東側の壁、おおきな嵌め殺しのガラス窓。鋭く流れこむ朝陽が、白い壁に橙の平行四辺形を貼りつける。そのなかで、壁に書かれた十本の線が照らされていた。インクや絵の具ではなく、刃物で壁に直接つけた傷だ。

彼女が床を歩きだす。それにしたがって波がいくつも生まれたけれど、彼女の足がキャビネットの前で止まるときには、どれもおさまっていた。

キャビネットは木製。その足の長さは辛うじて水位にまさり、内容物が水に浸かることをふせいでいる。だから黒く湿った足以外は、ところどころひび割れも見えるほど乾いていた。深さのおなじ引き出しが三段あるうちの、一段目を引く。

そこに入っているのは、つるりと磨かれた整った形の小ぶりな林檎がふたつ、だけ。いつでもふたつと決まっている。そんなにいらないと、彼女はいつも思う。どうせひとつしか食べない。

いつもどおり、左の林檎を置きざりにした。

二段目と三段目には、本がぎっちりと詰まっている。じっと見ていると目のちかちかするくらい、いろんな色と大きさの本が並んでいるけれど、ほとんどは彼女の知らないことばで書かれている。だから、そのなかで彼女に読みとおせるもののは数えるほどしかない。そのうちの一冊を、二段目から探し当てて引き抜いた。緑色の背表紙に金色の印字。重たくて、小難しくて、黄ばんでいた。

ベッドへ戻る彼女。その脚を水音が追いかけようとして、諦めた順に、ちゃぷ、ちゃぷ、と部屋に響いていった。本をシーツのうえに投げる。脚は床についたまま腰かけると、肩から上だけが日なたに入って、すこし眩しい。枕元をさぐり、果物ナイフを手に取る。プラスチックの柄に描かれた幼稚なタッチの猫のイラストは、ほぼ消えかけている。

彼女は林檎を、まず縦に真っ二つに切る。彼女の左手に残ったのは半分になった林檎の片方だけ。もう片方は重力に従って落ちて、音を立てて水に潜った。それが浮かんでくるより前に、林檎の四分の一が降ってくる。続いて、八分の一。三度続けて水が鳴った。どぶん、どぶん、どぶん、と、なにかを諦めたような、重いのに気の抜けた音。

彼女の手には林檎の、八分の一だけが残った。その芯をとって皮を剥く。慣れているけれど危うい手つきだ。まだ皮がついたままの林檎の断片が、あいかわらず足下にぷかぷか浮かんでいる。出たゴミはベッドのうえにほったらかした。

ナイフは右手に持ったままで、林檎を口に運んだ。

甘さと酸っぱさと、歯が果肉に埋まる、冷えた感触。おいしいのか、そうではないのか、彼女にはわからない。ただ、林檎だった。いつもそうだ。すこしずつたべて、ゆっくり噛む。

食べながら、窓の外をぼんやり眺めた。交差点、行き交うひとと車と、近くのビルと遠くのビル、見えるものはそれで全部だった。

街の空はきっぱりと晴れていて、雨が降る気配なんてなかったのに、こうもり傘を持って歩くひとが十数人いた。気になることといえば、それくらい。手にあったものを食べおわって、彼女はもうひとつの八分の一を拾いあげる。

バケツのなかに皮と芯とがまた加わった。

外では烏がなにか鳴いていたけれど、その声は彼女に聞こえない。聞こえた街の人たちも、それを気にしていないらしかった。

街はつねに動きつづけている。行き交うひとの動作と、機械の駆動と、風の複雑さ、草や鳥の不規則性に満ち満ちている。けれど、そのなかのどれひとつとして、街に変化をもたらさなかった。それはひどく退屈な風景だったけれど、彼女は見とれている。

陽が完全に昇って部屋から日なたが消えるころ、剥いた林檎の最後のひとくちを食べ忘れていることに気づいて、それでやっと窓の外を見るのをやめた。林檎は指の熱で黒ずんでいた。彼女はそれをベッドの上のりんごの皮や芯と一緒にして両の掌の上に乗せて、ベッドを立ち、部屋の隅のバケツにむかう。使い古されて凹みも目立つそのバケツの、水も入っていないからっぽに、ごみを放りこんだ。ついでにトイレも済ませた。

ベッドに戻るついでに林檎の四分の一をひろいあげて、皮も剥かないでそのまま齧りながら、さっきキャビネットから出して来た本を開いた。古くなった糊のにおい。

本は四百ページ以上ある。遠くの国の首都の歴史について、建築学的に長々と説明が続いている。知らない用語がたくさん並んで、何度読んでも、彼女にはよくわからない。

だからこの部屋の本のなかではいちばん退屈だけれど、ときどき挟まれる図版は好きだった。歴史的な四角い建築物。町の遠景、石畳の広場。二等辺三角形と菱型だけで組まれた真新しいビル。写真はどれもモノクロで、彼女はその色を空想して楽しんだ。そのたび、都市は赤くなったり青くなったりした。もっていた分の林檎を食べおわったら、芯は適当に投げて水のうえに浮かべて、今度は半分の林檎に手をつけた。

途中で本の内容から意識が離れ、目は文字を追っているのに、行間の白さやページの感触、自分の手のあたたかさが気になりはじめる。気まぐれに林檎をかじってみる。そうしたら今度は、果実を噛むたび頭に響く音のせいで、耳のほうに意識が向いた。彼女が口の中のものをすべてのみ込んでしまうと、いよいよ部屋のどこにも音はなくなってしまった。

空気の音もしない、不自然なしずけさ。耳がむずむずするようだ。彼女は本をそっと閉じて、水に足をおろした。

泳ぐ練習をするみたいに、ぱちゃぱちゃと足を規則的にうごかしはじめる。それで沈黙は息をひそめる。

窓のそとは、全体が西からの光で赤く染まっている。まるで泣きはらしたようだ。彼女は視線を動かさないまま、部屋のなかの光を感じ取ろうとする。

いよいよ暗い。朝、水に溶け、青色に成りすましていた闇が牙をむいているのだ。その支配のもと、空気は冷えはじめている。そろそろかな、と彼女は思う。

部屋はさらに狭くなったようだ。彼女はあらためて本をひらいた。林檎はまだ手の中に残っていたけれど、味に飽きたので水に捨てた。キャビネットにぶつかる。彼女の指がページをめくる。護岸工事で直線になった川の図版。何行か一気に読み飛ばして、また次のページへ、ふいにその右下あたり、「計」の字の下半分と「が」の字の上半分を飲みこんで、ぽつりと灰色の、ちいさくて円いしみが現れる。

来た。本を閉じる。手の甲、鼻のさき、膝、うなじ、身体のいろんなところに連続して、ぽつ、という感触がする。つめたくて細い指で、つつかれたような。それはどんどん増えていく。走っていく子供の足音のように水面が鳴く。だれがなにを投げたわけでもないのに、波紋が、波紋が、ひとりでにいくつも現れる。波が複雑性を増していく。天井に映る不定形の影がそれに追随してさわぎだす。ああ。彼女は息を漏らした。

夕立だ。

雨足はどんどん強まる。しだいに目が開けられなくなる。機関銃を撃ち放すような音はきっと、バケツの底にぶつかった水滴の悲鳴。彼女はベッドに戻って本を抱えたまま頭まで布団をかぶった。部屋に満ちているのとは別種の闇がからだを包んだ。目は開いたままでいた。

彼女が見守らなくてももちろん雨は降る。水面を慌てさせ、うかぶ林檎を躍らせて、バケツに水を溜め、クローゼットを黒く湿らせて、布団までが、たたたたたた、とにぶい音を鳴らして、まるでそこらじゅうはパレードだ。そのさわがしさを彼女は布団のなかでちぢこまり、本をぎゅっと抱えてよろこんだ。

窓の外はあいかわらず雨の気配もなく晴れていて、沈んでいく太陽をうかがいながらおそるおそる出てきた月も、何にも遮られないで輝きはじめていた。この部屋だけがどしゃ降りだ。空もない。雲もない。ただ雨だけが降っている。彼女はぎゅっと目を瞑っていたけれど、たしかにそれを聴いていた。よろこびのなかで聴きつづけていた。やがて瞼をおろしても闇のなかで、眠りが訪れても夢のなかで、降りはじめとおなじ早さで、雨が去ってしまうまで。

 

         ***

 

目を醒ましてふとんを跳ね除ける。彼女はまず果物ナイフをさぐりあてて、ベッドのそばの壁にまた一本、線を刻みつけた。十一本目。あの夕立がはじまってからは毎日やっている。

床に足をおろすと足首より下は完全に水に浸かり、彼女のふくらはぎの一部も飲みこむところまで水面は来ていた。

昨晩抱いていた本はベッドの上になくて、たぶんキャビネットの中に戻っている。きのう水に捨てた林檎の食べ残しも消えている。確認するまでもない、バケツもどうせ、からっぽに戻っている。けれど、水だけはすこしずつ溜まっている。上へ上へと。水位は上昇している。

キャビネットは、三段目がもう四分の一ほど水に浸かっていた。一段目の引き出しには林檎がふたつ。また右のほうを取って、二段目を開けて、昨日とは別の本を出した。

いつものように適当な手つきで林檎の皮を剥き、ひとかけをかじりながら、むこうの壁を見た。水位は天井までの距離の、十五分の一くらいまで来ているだろうか。それで十一日かかっているなら、何日後に。

十五かける、十一は。待ち遠しい気もちで、彼女は慣れない計算をはじめる。