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椅子と夢

 家具店はずいぶん遠かったみたいで、体はいつのまにか、売り物のソファのやわらかさにどっぷり浸かってしまっている。向かいに陳列された椅子はどういう仕組みなのか壁に張り付いて、楽器店のギターみたいに上下ジグザグに並んでいる。めぼしいものは見あたらなかった。どの椅子も人間工学に基づいている風にうにょんとした輪郭の、最新鋭の飛行機みたいな形をしていて、でもそのときのぼくが椅子に求めていたのはそういうことではなかったのだ。

 小さな男の子とその父親とが手をつないで、視界の左端へ入ってきて右へと流れていく。父親はべつに片方の肩を下げるような不自然な体勢はとっていないし、男の子のほうもつないでいる方の手を高く上げてはいても肘の伸ばしかたに余裕があって、二人の身長にそこまでの差はないことがわかる。

 真剣に家具の品定めをしている感じではない。男の子はやたら早口で友達とこの間やった何かのゲームの話をしている。父親はそれに相づちを打つだけでほとんど聞いてはいなくて、かといって椅子をちゃんと見ているわけでもない。それよりも息子と歩調を合わせるほうに神経を割いている。

 右の角を曲がって、並ぶ家具が椅子から小さなテーブルへと変わるところで、二人の目が合う。さっきからひんぱんに息子の顔を見ていた父親の視線に、話題が今のものになってからはじめて父親のほうを見た男の子の視線が重なる形だ。父親が男の子のほうを見ていたのは喋るのに必死になっている様子がおもしろかったからなのだが、息子のほうではそれがわからない。戸惑ったせいで言葉がぴたっと止まってしまう。すると父親はそれを察知して、

「そんで?」

と話の続きをせかし、男の子のほうはそれで元の熱狂に立ちかえって、「それでね」も「ええと」もなしに言葉が切れたちょうどそこからまた、さっきと同じ早口で話しはじめる。二人の視線はするっと離れて、父親は右手前にあったサイドテーブルに、息子は正面にある大きくて青い机の値札に、それぞれ目をやった。

 大きい窓は西向きで、部屋には日向も日陰もなく、薄青い影にぼんやり包まれていた。六時半、ソファから降りる。素足を下ろした、フローリングはそれなりに冷たかった。この薄暗い部屋について、ぼくは電気のスイッチがどこにあるのかさえ知らない。

 足下に毛布が冷え切って落ちているのを見つけ、道理で肌寒いはずだ、と思う。拾い上げたそれを四つに畳みながら、どんどん遠ざかっていく夢の中の家具店をつなぎ止める努力をはじめてみた。

 昨日の晩になにも食べないで寝たせいか少し苦痛なくらいにお腹が空いているけれど、家主不在の部屋で食べ物を漁るのは、怒られないとは思うけどなんとなく気が引ける。まあ坂木さんだって朝は早い方だから、どうせもうすぐ起きてくるんだろうし。畳み終えた毛布はソファベッドの背に掛けてあった、昨日着ていたカーディガンと入れ替える動作が、夢の現実感とこの現実感との間に明確な境界線を引く。少しだけ残留していた家具店の風景、さっきまで寝ていたソファとは少しだけ違うあのソファの感触が、ぱちっと記憶に書き換わった。

 カーディガンを羽織って、二歩、三歩、食卓の椅子に座る。自分から寝ている人間のにおいがした。背後に壁を隔てずキッチンと、短い廊下に出るドアがあるのをぼくは知っている。向かいの椅子の背もたれの向こうの窓は、道路を挟んで向かい側にある竹林の青さに埋め尽くされていた。

 視界の隅になにか光るものを見つける。ミネラルウォーターのペットボトルだ。飲み口から一センチ足らずのところにある水面はこの部屋にあるわずかな光をつかまえて輝いている。飲み込んだ唾液がのどにへばりつくのを感じ、水くらいならいいかと、誰に対してなのか釈然としない言い訳を用意した。薄いポリエチレンテレフタラート越しに水の冷ややかさが伝わり、蓋を開ける音が思いのほか目立って、ぼくはそこでやっとこの部屋の静けさをみとめる。

 水は水の味がした。蓋を締め直して、テーブルに戻すことはせずに手に持ったまま、十数センチ降りた水面がぼくの手のかすかな震えに反応してきらきら輝くのを見ていた。飲み込んだ水が体の中を下っていく感触か錯覚かが、夢の整理作業を早めた。時間をかけてじっくりやりたかったのに、という思いをさておいて頭は回っていく。

 夢の整理は、物語の構成や過去のことを思い出すのとは逆の順序ですすむ。大まかなあらすじが成文化できるようになるのは最後の最後で、整理したところで後で忘れてしまうような細かなところが全部固まってからの話なのだ。起きてからのぼくの創作が混じるのはもう仕方がないと思う。筋道だっていないそのままの夢はたしかに魅力的だけど簡単に忘れてしまうし、あとで思いだそうとする現在のぼくによる捏造が逆に増えてしまうことになる。

 窓外、風に笹がざわつくのが聞こえて、それが水面の揺らぎとリンクしたようで一瞬びくっとする。ペットボトルをまたテーブルの上に立て、動揺をとりあえず収めてから、今度は夢の周囲の考え事を整理していくことにした。あの店の雰囲気や、親子のほうに夢の軸が移って自分の身体のことをだんだん忘れていく感じに似たものを探す、夢そのものについて考える。これまでに読んだ言葉や聴いた言葉の中から、関係のあるものやないものが出たり入ったりして、それはそれとして何の脈絡もなく数年前流行った一ミリの愛着もないポップソングのフレーズがひとつふたつ思い出され、ぼくはうんざりする。二口目のミネラルウォーターで空腹を思い出し、あいつはまだ起きてこないのか、とちょっと腹立たしくなる。もう気にせず食べ物を漁ろうか。いっそ起こしてしてやるか。考えるには考えたけど、結局、夢の整理を続けてこのまま時間をつぶすことにした。そう決めたらぼくの考えはなぜか坂木さんに話すことを想定したやり方で進んでいって、そのせいなのか、ふいに背後でトイレの水が流れる音が聞こえても、その後頭上で蛍光灯が点いて後ろから坂木さんの声が聞こえても、ぼくは全然驚かなかった。振り向かず、

「おはようございます」

と返した、そのことばはべつに変な響きをしたわけでもないのに、なぜか知らない人の知らない声のように聞こえた。朝はだいたいこうだ。

「起きてんだったら電気ぐらいつけなよ」と、坂木さんの声は起き抜けでもはっきりしている。台所の流しの水でばしゃばしゃ顔を洗う、その音さえもはっきりして聞こえるくらいだ。

「スイッチがどこにあるかわかんなかったんです」

 ぼくはペットボトルをテーブルに置いて、左手で頬杖をつく。背後では水の流れる音がやんだ。

「そんなの探せばすぐ見つかるのにさあ。どんだけ面倒くさがりなの」

「べつにめんどくさかったわけじゃなくて」

「じゃあなんで」

「思いつかなかったんですよ、そもそも探すことを」

 坂木さんは、あー、と生返事をしてから数秒ぴたっと黙り、それから、

「だからさ、その電気のスイッチを探すなんて単純なことを思いつかない脳みその構造がもう面倒くさがりのそれなんだよ」

 坂木さんはこういう長い説明をするとき、いつにもまして声の抑揚が小さくなる。ぼくは返事をしない。

「なんか食べた?」

「水は飲みました」

「はいはい。食パンとスープでいいね」

 ぼくがそれにうなずいて、なんかしますか、と訊くと坂木さんは、じゃあコーヒーでも淹れて、と言う。ぼくはテーブルの上に昨日の晩も使っていた黒くて古いコーヒーメーカーをみとめてから立ち上がって坂木さんのほうに振り向き、

「粉は」

「冷蔵庫の横、こっち」

 振り向くと坂木さんはキッチンに立ち、右手の人差し指でキッチンの奥を指している。ぼくは食卓を離れて、流し台、坂木さんの背中、パンが焼かれているトースターとスープが火にかけられているコンロを通過し、突き当たり、銀色の冷蔵庫の横にある棚、真ん中の段にそれっぽい袋を見つけて、坂木さんに確認してからそれを持って戻る。