53

懺悔

キャンバスを手に取ったのは、それを床に叩きつけようとしたからだった。けれど腕は、地面と平行になる前に止まった。床にこびりついた絵の具を取り除くことのむずかしさを忘れてしまうほどには、その衝動は強くなかった。

手にあるものをイーゼルに戻して、そこから離れることにする。リビングのドアを開けながらもういちど、キャンバス、まるっきり緑色なキャンバスを見てみると、また両腕がざわざわとした。違う、あれは本ものの緑色ではない、それどころか、思っていたような緑色ですら。

鉄のドアノブが、手の熱でぬるくなる。

 

あの絵を描こうと思ったのは、明け方に散歩をしていて、日ののぼっている最中にコンクリートの隙間から生えていた雑草を見たときだった。

葉脈はぜんぶ緻密に計算して機械で線を引いたように平行で、真ん中のいちばん太い葉脈は裏側に白く出っぱっている。葉はどれも、先がとがったただの帯のような形だ。名まえは知らないが、雑草、とこころのなかで呟けばまず最初に思い出す草だった。一枚だけ、ちぎってポケットにつっこんだ。

家に持って帰ってみてみるとますます、良い色だった。暁の下でも蛍光灯の電光の下でもうす暗闇のなかでも、周囲のぼんやりとした色彩をばかにするように、まったく同じ鮮やかさをはなった。これだけが本ものの緑色、本ものの色だと思った。そしてそれを、キャンバスに映してみたくなった。きっといい絵になる、生まれて初めて描くような、描くことで生まれなおせるような。三日後、金の許す限りに大きなキャンパスといろんな種類の緑の絵の具を買ってきた。

描き始めは順調だった。鉛筆の下書きは無難な出来だが悪くなかったし、色を塗り始めてから二日くらいは緑色をキャンバスに乗せるたびにわくわくした。五日目から頭痛がして、七日目で治り、その日に葉脈も空白もぜんぶ緑色で上書きして、拾ってきた草を捨て、撮っておいた写真も見なくなった。そこからはただキャンバスに緑色をあらん限りに塗りたくった。ペインティングナイフで塗り筆で塗り箸で塗り指で塗り腕で塗り新聞紙で塗った。究極の色彩がここに生まれてくるのだ、と思った。呪術的な儀式のようだと、右後ろから揶揄するような声が聞こえてきて、それをかき消すようにまた緑色を塗り、乗せ、叩きつけた。

そして完成したのがあのただの緑色の集積だった。美しさも純粋性もそこにはなかった。自分の色彩感覚を過信して、それを研ぎ澄まし完璧に発露しきること、を言い訳に計算と技巧と物語性を放棄したところで、ただ時間と絵の具が消費されて、残るのは腕の乳酸と憔悴、それだけだ。

描きはじめてから一ヶ月ほどして、何千回目かのまばたきをしたとき、やっとそれに気づいたのだった。

 

掌を嗅ぐと、油絵の具と雑草と汗の臭いで吐き気がする。だから手を洗った。廊下の床に落ちていた文庫本を棚に戻す。エレキギターが倒れている、いまだに弾けない、弦の張りかえかたも忘れてしまったエレキギターが、埃をまき散らして倒れている。そこにも油絵の具がにおっていて、戻してやるのは面倒だった。

逃げだすように家を出た。スマートフォンの電源をつけて時間を確認すると、昼過ぎを指していた。外はどんよりと曇って暗く、息を吸うと、埃のにおいと車の排気ガスが混じって鼻に入ってくる。

それでも、さっきまで居た部屋にくらべたら涼しいし、油絵の具のにおいがないぶんましだった。イヤフォンをはめながら、結局、あれはなんのにおいなんだろう、と考えた。何度も何度も、今度調べてみよう、と思いながらいまだにわかっていない。もしかしたら、調べるたびにそのことを忘れているのかもしれなかった。

四つ角を左へ曲がって、ファストフードチェーン店の店先を通り過ぎる。脚はいつもの散歩と同じように、最寄の駅に向かう。暑さと湿っぽさに、汗がどろどろと出る。油絵の具のにおいの汗。体じゅうの皮膚を走るその流れが、まるで自分の体を溶かしているように感じられていた。

この体のすべてが溶けたら、汗はきっと数十リットルにもなっているだろう。そしてコンクリートの歩道に染みこんで、数日かけて蒸発して空気に混ざる。そうだ、この湿っぽさはすべて、蒸発した人間の体でできているのだ。あの脂ぎった額の背広姿も、黄色い帽子の小学生も、なにかの楽器ケースを持った茶髪の女も、夫婦なのかそうでないのか釈然としない距離で歩いている中年の男女も、いつかみんな自分の汗に溶けて、空気に混ざっていく人間だ。そんな想像も信号を待つ間にかき消えていく。暑さのせいだと思った。

横断歩道を五、六人といっしょに渡って、十数人とすれちがう。そのなかのひとりに知り合いの女がいたような気がした。立ち止まって振りむいたが、横断歩道を渡っていく後ろ姿はすべて知らない男のものだった。ちいさく息を漏らしてまた歩く。はめたイヤフォンから結局まだ何も流していないことに気がついたがポケットを探るとイヤフォンはどこにもつながってはいなくて、ただイヤフォンジャックが掌のなかをころがった。

厚い雲のうえで日は暮れはじめ、仄暗い街は青くなった。横断歩道、ゲームセンターの外壁、通り過ぎる女のうなじ、噴水の細かな泡、白いものはどれも、病人じみた重っ苦しさに囚われている。海の底にいるような錯覚に陥った。うつくしい色。でも、それを絵に描こう、とは、もう思えなかった。鳥の声。きれいだけど、誰もそれを口で真似しようとはしない。それと同じだ。

立ち止まると一緒に歩いていた人たちに置いて行かれた。踵を返せばすれ違う人たちに無視された。絵を描くのはもうやめよう、と決める。駅にも家にも行かない角を曲がれば、掌のにおいが、すこしだけましになった。