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窓のかたち

 佐郷さんというのはとにかくそういうひとなので、会ったときのことを瑞樹に話してみたくなるのは当たり前だと思う。次に顔を合わせた時やっぱり話した。
 その間にそっちのジュースは半分、こっちのコーヒーは三分の一くらいを残して室温になってしまって、その中間に並んだふたつの皿の、どっちにモンブランがあってどっちにベリーのタルトがあったのか、瑞樹はたぶん覚えているんだけどぼくは忘れている。ぼくらの話は佐郷さんのことが終わっても止まるまでにけっこう時間がかかって、話しながらでも瑞樹のひらいた文庫本はたぶん合間合間にけっこう進んだ。外では雨がやんだから店内は日向と日陰に分かれて、瑞樹のグラスにできた結露がコースターへ垂れさがって灰色の三日月になる。
溶けて位置のかわった氷同士がぶつかってからり鳴って、となりの家族の話す声、瑞樹は鼻歌を歌っている。となりでは引かれた椅子が床と擦れて音を立て、ぼくは鼻歌のメロディに聞き覚えがあって、それがどこから来たものなのかを思い出そうとしている。
「どうした?」
 曲名が思い出せない鼻歌が曲名を思い出されないままに止んで、いつもより高い、不意をつかれたような声と入れ替わる。聞き覚えの根拠をさがした視線が勝手に、ずっと瑞樹の顔へ向いていたらしかった。すこし唇をつきだして、まるく見開いた眼。
 なんでも、と言ってみても瑞樹は、本を机に伏せてまで、やっぱり食い下がったから、
「鼻歌、なんだっけって」言いながら右手のスマホをしまう手の動きが、瑞樹の目にとらえられているのがわかる。「聞き覚えあったんだけど、思い出したいから訊かない」
「思い出したいってなに」
 うすく笑って、左の手を本の上に置いたまま、右の手で頬杖をついた瑞樹の顔が、そうして傾いた先で半分くらい日向に入る。
「ええと、」ぼくがどう説明しようか考えながら、視線でなぞった肌の上の陰の輪線の曲がりかたを見て気になった窓のかたちを、前にひとりで同じ店に入ったときにも見たはずなのに忘れたな、と思い出して、だからそれ以後、そのときと同じようにカウンターの向こうでふたりの店員さんが雑談する声をきくと、それに耳を傾けるのは瑞樹のことを考えながらになる。
 勤労感謝の日ってなんなんですかね。そう言った、若いほうの店員さんの、高くてふらふらした声の感じをぼくははっきりおぼえている。
「そうですねえ」コーヒーシュガーの細長い袋をぎざぎざの形に折りたたむ手癖に似た自然さで、ぼくはするっと会話に加わって、「海の日とか山の日なら何する日なのかわかるもんだけど」
「それ言ったら、山の日とかも微妙じゃないですか」
「いや、けっこう効果あるみたい、登山客が増えたり」そこで笑った店員さんは、「あと、お客さんの前で腕組まない」
「あ、すみません」
 はにかんだ顔にいえいえと笑って答える。若いほうの店員さんはそれから注意されたのをごまかすように少し奥へ入って棚のカップを整理しはじめ、もう片方の店員さんはさっきからコーヒーをたてていて、ぼくと二人を隔てるものはカウンターだけではない。
 祝日、登山、外出の頻度と最近の気候。特に興味もない話題の会話にただ相づちをうつだけでも、これまで何回もこの店に入って、見たこともあるはずなのに会話するどころかひとりの人間として認識すらしていなかった人たちと顔を合わせて話してみる、ということのおもしろさはじゅうぶん味わえていた。
けっきょく、勤労感謝の日ってなんなんだろう。進みあぐねた話題がまた戻って、その広がりが滞ったところに、
勤労感謝の日は、」
 その日耳にした中で今のところいちばん低い声が割り込む。L字型のカウンター、ぼくのいる席からふたつ店の奥へ、九十度曲がってまたひとつ奥へ行ったところに座っていた、その声が佐郷さんのだ。